私はもともと腎臓内科医でしたが名古屋大学大学院に入学したころ、
大学院生の規則で最低1年は基礎の研究室で研究しなければならないという規則ができました。
適当に籍だけおいてお茶を濁す医局もあったとは思うのですが、
私は実際に基礎の医局(微生物学教室)に派遣され研究に専念することになりました。
1年が経ちましたが天邪鬼な性格のせいでそのまま放置され、大学院修了後に至っては帰局しろとも言われなかったので、
そのまま基礎の教室の助手として居座ってしまいました。
就職して2年たったころ、教授から呼ばれ「米国の研究室に留学するように」命令を受けました。
「どこに留学するのですか?」と聞いたのですが、「どこでもよい」とのことで、とりあえず気候のよいカリフォルニアで研究室を探していただく
ことにしました。もちろん私のような実績もない研究者に給料をだして雇ってくれる研究室などあるわけもなく、サンディエゴの某研究所から「給
料は出さない、という条件なら来ても良い」という返事をいただきました。幸い、所属していた大学から2年間休職扱いで若干の給与がでることとな
り、それをあてに 1996 年 4 月、身重の家内を連れて米国に向けて出発しました。
出発の前に教授からは「インパクトファクターで 10点以上の論文がでなかったら帰ってこなくてよい」と激励を受けました。インパクトファクター
10 点以上の論文をだせとは超一流の科学雑誌に論文を発表しろ、ということです。当時は身の引き締まる思いでしたが、今考えるとアルバイトにば
かり精を出している不良研究員に対する退職勧告だったのかもしれません。
さて、初めての米国です。
というよりは私にとって初めての外国です。
出発前に少し駅前留学をしてきましたが、実際に現地に来ると言葉が全然通じません。たとえばレストランへ入って料理を注文すると、黒人のおじ
さんが「バボ?」と聞いてきます。
「バボって何?」と困っているとおじさんは怒ったように「バボ!」と畳み掛けてきます。しばらくしてわかったのですが、付け合せの野菜(ベジ
タブル⇒バボ)はどれにするか聞いているのです。ついでにビールを注文したらなんとミネラルウォーターがでてきました。どうやらバドワイザー
と言ったのにボトルオブウォーターがでてきてしまったようです。
自分の前途について途方にくれましたが妊娠中の妻を背負って弱音は吐けません。何とかレンタカーを借りて、出発前に予約をしたホテルを目指す
ことになりました。
ホテルを予約したデル・マーはサーフィンの聖地として有名です。
日本を発つ前にFAXのやり取りで予約は入れてありましたが当時はネット環境も貧弱でサンディエゴ周辺の詳細な地図を日本で手に入れることがで
きませんでした。
そのため、お母さんのメモを頼りに出撃する初めてのお使い、みたいな状況になってしまい、なかなかホテルにたどり着けません。そのうち日が暮
れたので、あきらめて公衆電話から電話しようと車をとめたらちょうどホテルの目の前でした。
なんの変哲もない道に面してホテルは佇んでいた。
翌日はさっそくラ・ホヤにあるスクリプス研究所へ出向きました。
スクリプス、というのは米国の新聞王だそうで、その一族が研究所となる建物を寄付したのだそうです。
PGA ゴルフツアーが開かれるトーレイパインズコースに隣接して建てられたそれらの建物には免疫学ビルディング・生化学ビルディング・分子生物
学ビルディングなどと名前がついており、雑居ビルよろしくいろんな研究室が入居していました。研究室は借りている分だけ賃貸料が発生しますの
で、素晴らしい業績を挙げている研究室はどんどん縄張りを広げ、いっぽうで業績がパッとせず研究資金を確保できずに消えていく研究室なんかも
あります。繁華街なんかでよく見る、スナックなんかが入居している雑居ビル(ソシアルビル)を思い浮かべていただければ当たらずとも遠から
ず、です。
したがって日本から留学に来た研究者の中にはスクリプス研究所に来てみたけれど受け入れてくれるはずの研究室が消滅してなくなっていた、など
という実例をみたことがあります。
その研究所は Torrey Pines Road(トーリー松通り)に面して建っていた。
見慣れた日本の松と違ってアメリカの松は天に向かって自由奔放に伸び放題だった。
さて私の研究室ですが、入り口に立っている警備員に免疫学研究室に来訪した旨を伝えましたが、英語が下手なのかすっかり不審者扱いされてしま
い警備員から連絡を受けた研究室の人が身柄引き受けに来てくれるまで中には入れてもらえませんでした。
迎えに来てくれたのは J.D.リーという台湾人で彼に連れられて免疫学ビルディングの所長であるユダヤ人のボス(R.J.ユルビッチ)のところに案内
されました。
そこでしばらく歓談しましたが、早口でしかも籠ったようなしゃべり方をされるため何を話しているのか良くわかりませんでした。ただ、なんとな
くあまり期待されていない感がヒシヒシと伝わってきて、最後に「君はモノクローナル抗体を1本作れば十分だから」と言われ、研究にあたっては
リーの指導を受けるように言われました。
マイボス、ユルビッチ
ユダヤ人ってこんな感じの人が多い。日曜日には頭に小さな帽子を載っけている。
リーはとても愉快な男で皆から JD(ジェイディ)と呼ばれ慕われていました。 米国の研究者は「グラント」という研究資金で生計を立てています。研究者の生活費、雇っている研究員の人件費、オフィスの賃貸料はすべてグラントから払われます。ユダヤ人のボスは複数のグラントをもっており、ポスドクと呼ばれる部下を10人ほど使って研究をしていました。優秀な部下の中にはグラントを持っている者もおり、フルグラントですと生活費を切り詰めれば数名の部下を養えます。
JD はハーフグラントを持っており自分の生活費は自分で賄えるものの部下を持つほどの資金力はありませんでした。後で聞いた話ですが、ユダヤ人のボスは外国人研究者が来ると見込みのありそうな者を直属の研究者として手元に残し、見込みのない者は部下に預けるのだそうです。私の場合は給料を払う必要がないため、給料が払えない JD とチームを組むようにしたようです。
JD はとても面倒見の良い男でアパートの手配や銀行口座の開設など、私が米国で生活できるようにといろいろ段取りをしてくれました。
アメリカで住んでいたアパート。イタリアみたいな外観だけどただのアパート。
日本の青木建設がバブル期にアメリカに進出して建てた。日本が不況のためか私たちの滞在中に
アメリカの不動産業者に渡ってしまった。そのあと、サンディエゴの不動産はどんどん、どんどん値上がりしていった。
ひととおりの手配が終わったあとレストランでいっしょに食事をしました。
話が研究の話になると自分の場合はモノクローナル抗体を作るだけでは不十分で、日本のボスからインパクトファクター10点以上の論文を提出するように言われている、と伝えました。
驚いたことに JD は「インパクトファクターって何?」と言います。
インパクトファクターとは一つの雑誌がどれだけ世界の研究者たちから引用されているかの目安だ、と解説しました。どうやら米国の研究者はこのような指標は誰も気にしていないらしいのです。
「で、10点ってどのぐらい?Journal of Biological Chemistry(米国生化学分子科学学会誌)は生化学の分野ではトップの雑誌だけど、そこに論文を発表すると何点?」
「8点だね。」
「じゃあ、免疫学でトップの Journal of Immunology(米国免疫学会誌)は?」
「同じぐらい。」
「10点以上ある雑誌ってどれ?」
「Journal of Experimental Medicine(実験医学雑誌)なら13点あるよ。」
ここまで話して、彼の表情がこわばるのがわかりました。そして最後にこう言いました。
「もしそれが本当に君のゴールだとしたら、自分がやっている研究について絶対にボスに話しちゃだめだぞ。」
「特にネイチャー、セル、サイエンス。この三つの雑誌に論文を投稿するときには絶対に誰にも口外するな。もしボスがそれを知ったら一瞬で顔が真っ赤になり、目が血走り、その研究は二度と君の手には戻ってこないだろう。」
研究の世界で働いている者にとってこの三つの雑誌に論文を掲載することは勲章です。
私たちのボスはスクリプス研究所の免疫学ビルディングで所長を務めるほどの大物でしたがそのボスでさえ、目の色が変わる、というのです。
それから私はアメリカを離れるまでずっと JDと一緒に研究することになりました。その間、たびたびボスに研究の進行具合を報告する機会がありましたが私たちはいつも失敗したデータばかり持ち込んで論文を投稿する寸前まで本当のことは決して報告しませんでした。こんなことを書くとなんてずるい人間なんだ、と思われるかもしれません。しかし、米国の研究現場では日常茶飯事なのです。
私が研究室に入ってすぐ、スクリプス研究所の倫理委員会から呼び出しがありました。行ってみると世界の各国、全米各地からスクリプス研究所にやってきた若手研究者たちが集められていました。
講師の男性は研究に関する倫理やマナーについてひと通り話し終わると「自分の研究を人に盗まれた経験のある人。」と出席者に尋ねました。
するとかなりの若者が手を挙げ、どのように自分の研究が盗まれたかを涙を流しながら語り始めました。講師の男性は出席者の心が落ち着くまで静かに話を聞いていました。これが当時の最先端の研究をしている米国の研究所の現場であったわけです。
同時期に米国で活躍した日本の研究者のコラムを読んだことがありましたが、彼もずっと偽の(というかいい加減な)報告をボスにしていました。しかしある日、報告を終わってボスの部屋から出ていこうとするといきなり出口のところで「ところで君は、本当はどんな研究をしてるんだい?」と背後から声をかけられて心臓が縮む思いをしたそうです。幸い、私はボスから思い切り低い評価を受けていたため米国を離れるまで本当の研究成果について話すことはありませんでした。
研究室に入った当初は当たり前ですが住むところがありません。最初の 1 週間はホテル住まいで食事は外食でしたがこれは結構堪えました。結婚してまだ 1 年も経っていませんでしたが私の胃袋はすっかり妻に飼いならされてしまっていたからです。
JD の援助でやっとアパートに移ることができましたが私たちは生活に必要な物品を全て自前で揃えなければなりませんでした。当時、米国には「ターゲット」という名前の量販店があり、そこにはいつ壊れてもおかしくない怪しげな中国製の日用生活雑貨が山のようにおいてありました。アメリカと日本の小売店の大きな違いですがアメリカでは商品が 1 種類しかありません。たとえば日本でオムツを買おうとするといろんなサイズと「蒸れない」とか「漏れない」とか「臭わない」といった様々な長所のあるいろんなオムツが種類豊富においてあります。しかしアメリカでは全く同じ素材の同じ形の 1 種類だけのオムツが大量においてあるのです。違いといえば「S」「M」「L」ぐらいで製造元の会社が違っても中身は全く同じオムツが天井に届くまで積み上げられています。
よく行ったコンボイ通り沿いのターゲット。
洗うとまだらに色落ちのする T シャツを信じられないくらい安く売っていて、良くも悪くも米国と中国の底力が炸裂していた。
しかし、スーパーマーケットで一番驚いたのは返品システムでした。アメリカのスーパーマーケットでは商品を購入したあと、それが気に入らなければ無償で返品できるのです。クリスマス明けともなるとスーパーマーケットの返品コーナーには長蛇の列ができます。プレゼントを貰った人が気に入らなかったのでしょう。封を開けた商品を持っていくと係員が「何か問題でも?」と聞きます。すると客は「ナッシング(なにも)。」と答えます。これだけで返品終了なのです!こんなことでお金を返しちゃっていいのかお店!と心のなかで叫びましたが店員もお客も当たり前のような顔をしてました。
ターゲットでフライパンなどを購入したら次は布団です。サンディエゴを車で走っているとやたらと「Futon」と書いた看板が目に入ります。
サンディエゴのふとん屋さん。アメリカ全土がこうなのかサンディエゴだけなのか知らないが
大きなスーパーマーケットがある一方でこんな感じの個人商店が結構たくさんあった。
20 年近く前の話なので今はどうなってるのかわからないけど。。。
最初は冗談かと思いましたがこれは本当にふとん屋さんでした。
よくカリフォルニアは温暖だから、サンディエゴは常夏の国だから布団なんぞ必要がない、なんて人がいますがそれは真実ではありません。たしかに海岸ではパームツリーが立ち並んでおり、水着の白人がデッキチェアで寝転んでいます。でもよく見ると誰も泳いでいません。
せっかくサンディエゴに来たのだからと私も海岸に行ってみましたがその理由はすぐにわかりました。水が氷のように冷たいのです。
サンディエゴの海岸は直接外洋に面しており、そこにカリフォルニア海流という寒流がぶつかっています。このため、人の背丈を超える波が常に打ち付けていて海岸にはアザラシが寝そべっているのです。この寒流の影響でサンディエゴの気候は常に安定しており、冬は日本の 4 月上旬、夏は 5 月下旬ぐらいの気温です。海で泳いでいるのは同じ研究室のロシア人だけでそれ以外の一般人は泳いでいませんでした。
サンディエゴの海で泳いでいたロシア人ブラジミル・現スクリプス研究所助教授。
僕がベンチに座って太平洋を眺めていたら「日本が懐かしいのか?」と声をかけてきた。
あんな冷たい海でよく泳げるな、と聞いたら「新鮮な水は冷たいものだ。」と平気な顔だった。
海面から顔を上げるとアザラシと鉢合わせになるらしい。間違ってシャチに襲われないか心配していたが、2016 年のネイチャーイムノロジー誌に彼の名前を見たので少なくとも 2016年までは食われていない。
Google street view でみるアパートから車で 15 分ぐらいのラホヤの海岸。アザラシが噛むから手を出さないように、
という標識が立っている。娘を抱きながらこの海岸を歩いていたら海に落ちてしまった。妻が海岸沿いの雑貨店で
ウィンドーショッピングをしていたら「お前のベビーとハズバンドが海に落ちた。」とアメリカ人が教えてくれたそうだ。
そんな場所なので当然、布団なしでは夜眠れず、早速ふとん屋さんでベッドとマットレス、掛け布団と敷布団をオーダーしてアパートまで届けてもらうことにしました。
そして研究所に出勤してその晩、アパートに帰ったら妻が放心したようにしゃがみこんでいます。何かと思ったら「ベッドが届いた。」と。でもベッドなんてどこにもありません。よく見ると段ボール箱で包装された木の板がおいてあります。そう、アメリカではベッドは自分で組み立てるのです。急いでターゲットで「Do it herself kit(女の子でも独りできる優しい工具セット)」というのを買って来ましたが、その日から到着する全ての家具を自分で組み立てる羽目になりました。
アメリカは車なしでは暮らせません。
最初はサンディエゴ空港で借りたレンタカーで用を足していましたがレンタカーは割高ですし、免許も取らなければなりません。
私たちは早速車を買いにでかけました。
アメリカでとにかくびっくりしたのが中古車の値段が高いことです。
特に日本製の中古車の高さは目がくらむほどで10年落ちのシビックが100万円を超える値段で売っています。
アメリカ人は神様よりホンダの車を信用していて、日本の中古車と言っても日本で作られた日本車かアメリカ製の日本車かで値段が違うほどでした。隣の研究室に留学に来た日本人外科医は安さに目がくらんでアメリカ車を購入しましたが、研究室の事務のオバサンから「気でも狂ったのか?お前は本当に日本人か?」と叱られていました。
私たちがアメリカに到着後初めて入ったガソリンスタンドで「My car is on fire!」と叫んで走ってくるアメリカ人を見ました。見るとアメリカ車がエンジンから火を吹いています。幸い、スタンドに消火器があって火は無事消し止められましたが隣の研究室の外科の先生の車もそれに似たような信じられないトラブル続きで、アメリカ人がアメリカ車を買いたがらないのも仕方がないのだと思います。
また、燃費の良さも日本車がモテる理由です。アメリカは産油国であり、ガソリンは確かに安く日本の三分の一から四分の一です。しかし、買い物にしても遊びに行くにしてもとにかく距離が離れており、ひとつの用事を済ませるためのガソリン代は結局日本と同じぐらいかそれ以上かかってしまいます。
そんなわけで私たちも日本車のディーラーでアキュラ・インテグラを購入しました。
アメリカに行くと食事に苦労すると思われるかもしれません。
しかし少なくとも私たちが留学した1990年後半ではほとんどその苦労はありませんでした。
当時、アメリカはすでに日本食ブームでアルバートソンズやボンズといった現地のスーパーマーケットでも普通に「Sushi」や「Teriyaki」が売っていましたし、パスタの横には現地生産の蕎麦が、お米はジャポニカ米によく似た「錦」という銘柄の米が売っていました。そしてスーパーマーケットの出入り口では海苔巻きをきれいに切ることができるスシカッターなる包丁を実演販売していたのです。それでも日本の食材が必要なときには日系のスーパーマーケットもありました。
当時ヤオハンと呼ばれたスーパーマーケット(現ミツワ・マーケットプレイス)。
アメリカでは手に入りにくい漫画が売っていて、とんねるずの「皆さんのおかげです」や月9のドラマを録画したビデオを有料で貸し出していた。今考えると明らかに違法だけど現地にはやっぱり日本語に飢えた人たちがいて、いつも盛況だった。
私たちが飢えたのは食事よりむしろ日本語でした。
西海岸は米国の中では東洋人の多い地域です。それでもネットがほとんど普及していない時代、現地で日本語を目にすることは殆どありませんでした。そんな私たち夫婦の一番の楽しみは文藝春秋。とにかく日本語がたくさん読めることが何よりの娯楽でした。
研究室は免疫学ビルディング半地下1階にありました。自分に与えられた研究スペースは奥行き50センチ、幅1.5メートルぐらいのスペースで実験をしながら昼食もそこで食べました。日本の研究室では考えられない生活でしたが実験をしながら食事ができるのは便利なのでつい放射能を使った実験をしながらその隣でランチを食べていました。
余談ですが私は結構大量の放射線を使用する実験をしていました。放射能(β線)の被爆を避けるため体の前にアクリルの遮蔽板を 3 枚たて、乳母車を引く老婆のような格好で実験をしていましたが、それでも放射線技師が私の背中に放射線カウンターを当てると針が振り切れました。
そんな実験をしていると体にも変化が現れ、米国滞在中の2年間で手の平にずいぶんとたくさんのホクロができてしまいました。子ダネも焼ききれて、もう子供なんかできない、と考えていましたが帰国後にあっさりと下の子供ができてしまいました。
ただ、大量の放射能を浴びたせいで出来が悪いです。
とりあえずスクリプス研究所の一角に自分の研究スペースを持ったわけですが、スペース的には日本と比べでずいぶん貧相でした。愛知医大の私の研究スペースは机も含めてその4倍ぐらいあったからです。
しかし JD に言わせると「業績の悪い研究室とはそういうものだ。」そうです。
「ここなんか、まだましだ。東海岸の毎年のようにトップジャーナルに論文を発表している研究室などは研究員の肘と肘、背中と背中がぶつかる距離で仕事をしている。今お前の座っている長椅子に 3 人が腰掛けている。本当に生産性の高い仕事をしようと思ったら、その人口密度じゃないとダメなんだ。」
さらに研究室を見渡すとおよそ日本では使われないような古い実験機材ばかりです。
例えば恒温槽。材料を 37 度に温める実験には無くてはならない機材ですが温度計をみると 39 度になっている。温度調節ツマミを回そうとすると慌てて JD が止めました。
「お前がそのツマミを回したとたん、その恒温槽はもう何度になるかわからない。
50 度になるか 19 度になるか誰もわからない。39 度なら上出来なんだ。ぜったいに触るな。」
なんとスクリプス研究所から発表される研究論文は「37 度で 1 時間反応させた」と記載されていますが、実は 39 度で反応がおこわれていたのです。
なかに水を入れて 37 度に温める恒温槽。
24 時間稼働していて、中の水が腐らないようにときどきメンテナンススタッフのジョンが水を入れ替えていた。
ジョンはとても親切な男だった。気さくに話しかけてくるので適当に相槌をうっていたけど南部訛りがひどくて何を喋っているか2年間ついにわからなかった。
他にも冷却機能のない遠心分離機、昭和の香り漂う滅菌装置などおよそ一流の研究室というよりは第二次大戦中の潜水艦の中のような体裁です。
たまに同じ免疫学ビルディングで大きな研究費を獲得した研究室があると、新しい研究装置を買ってこういった古い装置を捨てるのでお下がりをもらうのです。
しかしそれらの中古研究機器は常に誰かが使っていてメンテナンススタッフもついているためずっと壊れずに稼働していました。
スクリプス研究所で働いてみてすぐに気がついたことがあります。抜群に働きやすいのです。
例えば、日本でひとつの実験をしようとすると研究に必要な材料を問屋に注文するところから始めなければなりません。材料が届くまでに 1-2 週間かかり、やっと実験を始めたら研究機器が故障していて使用できなかった、などということが頻繁にあります。
日本の研究室では私学助成で買った1億もする高額な研究機器が並んでいましたが、それを使用する研究者もほとんどおらず、メンテナンスするスタッフもいないためイザ使おうとするとだいたい壊れています。助成金には機械を買うお金は含まれていますがメンテナンススタッフを雇うための人件費は含まれていないからです。
スクリプス研究所初代所長リチャード・ラーナー
大胆でエゴイスト。
スクリプスを世界一流の研究室に育て上げたのはこの男が造ったシステムの力(ちから)だ。
しかしスクリプス研究所では全てのシステムが躍動していました。実験材料は配達を待つ必要がありません。
各フロアには「ベーリンガーフリーザー」「ギブコフリーザー」と呼ばれる冷蔵庫がおいてあり、必要な試薬をとったあと伝票に書き込んで冷蔵庫の横にある箱に入れるだけです。田舎にある野菜の無料販売所のような仕掛けですが、こんなレトロな仕組みのおかげで納期を気にする必要なく研究者は好きなときに実験を始めることができます。
また、全ての実験機器にはメンテナンススタッフがおり、研究者が実験に使おうと思うと適切なアドバイスが得られます(また、研究者が横着な使い方をしないか見張っています)。そして全ての機械がフル稼働しており、実験で使おうと思うと順番待ちのノートに時間と自分の名前を書いておかなければなりません。
そしてこれが一番すごいことなのですが、いろんな研究室にいろんな実験のエキスパートがいるのです。
我々は一つの論文を書くときにたくさんの実験とそこから得られたデータを用意する必要があります。私が留学した1990年代ですら分子生物学の実験手法は猛烈な分量があり、実験の指南書だけでも電話帳3冊分はありました。日本でひとつの論文を書き上げるために10個のデータが必要だとすると10通りの実験系をゼロから組み立てなければなりません。スクリプス研究所では自分が不慣れな実験系があると必ず何処かにその実験に精通したスペシャリストがいるのです。そのスペシャリストには必ず友達がいますから私の友達に聞いて伝手を辿っていくとその人にたどり着きます。友達の友達のそのまた友達にお願いしてその人に実験を手伝ってもらうことができます。実験をやる人にとっては毎日やっている実験が少し増えるだけのことですから「論文に君の名前をのせてあげる」と言えば気軽にやってくれます。こうして10 個のデータが必要だとするとそのうちの半分ぐらいは他人にやってもらうことができるのです。
研究の世界では自分と同じテーマで、自分と同じゴールを目指して同じ実験をしている人が常に何人もいると言われています。そうなると良い業績をあげるために大切なことはゴールに到達するまでのスピードです。スクリプス研究所ではこのような競争に打ち勝つ仕組みがあり、それは偶然できたものではなく創始者のリチャード・ラーナーの構想によって造られたシステムの力(ちから)なのです。スクリプス研究所に特別優秀な研究員が集まっているわけではありません。夕方 5 時になるとみんな集まって1ドル札を出し合ってコロナビールを飲んでいました。しかし研究スタッフを支える優れたシステムがあるためにスクリプス研究所は昔も今も一流の研究所なのです。
米国上陸以来悪戦苦闘の毎日でしたがそれでも2週間も経つとボチボチ本腰で研究を始めなければなりません。
私の研究は当時大ブームとなっていたMAPキナーゼでした。
MAPキナーゼとはがん細胞が細胞増殖するときに細胞内で活発に活動する酵素です。
例えば現在肺がんの中で最も多いのは肺腺癌ですが肺腺癌の約半数は上皮成長因子受容体(EGFR)の突然変異によるMAPキナーゼの異常な活性化が原因だと考えられています。したがってMAPキナーゼの活動を抑えるような薬を発明すれば有力な抗がん剤をつくることができる(=莫大なお金が儲かる)と考えられていました。
私が共同研究をしたJDは世界で初めてMAPキナーゼのひとつ「BMK1」を発見(遺伝子を発見することをクローニングといいます)しましたが、その BMK1がいったい細胞の中で何をしているのかわからない状況でした。BMK1の役割がなぜ解らなかったのか、理由は簡単で当時はまだ BMK1 を人工的に活性化(元気にすること)ができなかったからです。BMK1の機能を知るために活性化がなぜ必要なのかというとBMK1は酵素だからです。酵素は細胞の中で普段は活性化されていない状態(元気のない状態)で存在します。しかし細胞に何らかの刺激が加わると活性化され、元気になった酵素の影響で細胞は変化します。その変化が何なのか、それは酵素によってバラバラですが、MAPキナーゼのような酵素が活発になると細胞が増殖したり、形態が変化して分化したり、状況によっては死んでしまったりすることがわかっています。当時は BMK1の活性化に成功していなかったのでBMK1が細胞にどのような影響を与えるのか解らなかったのです。
私が渡米して最初にした実験はこのBMK1を人工的に活性化する実験でした。そのため当時、BMK1と同じように何の役割を果たしているかわかっていなかったMEK5という蛋白の遺伝子を持ってきてその遺伝子に人為的に突然変異を起こさせてMEK5(D)という新しい蛋白を作りました。 そのMEK5(D)とBMK1を一つの細胞のなかで大量に作り出してやったところ見事BMK1は活性化されました。
BMK1をMEK5(D)とともにひとつの細胞の中で共発現するとMEK5(D)によってリン酸化されたBMK1は活性化BMK(p-BMK1)に変化して電気泳動の中を飛び跳ねる。
このような激しい活性化がなぜおこるのか、後に詳細に研究された。
その結果、MEK5 によって活性化された BMK1 が自分自身を更に活性化するために自分で自分をリン酸化することがわかった。
今日ではBMK1の過活性化はBMK1が細胞核に移行するために必要不可欠であると考えられている。
BMK1マップキナーゼ経路の働きを説明した動画。我々はBMK1と呼んでいたが、最近はもう一つの通り名であるERK5の呼称で呼ぶのが一般的なようだ。
このデータを見たとき、びっくりして椅子から転げ落ちるかと思った、と後にJDは私に語りましたが、世界の研究者が乗り越えられなかった壁を乗り越えた瞬間でした。にも関わらず、当時の私は本当に実験の初心者でしたのでその有り難さもわからず「活性化の実験をしたのだから当たり前。」ぐらいにしか考えていませんでした。
まさかこの現象が後に「BMK1の過活性化現象」という名前を与えられ、なぜ、何のためにこのような激しい活性化がおこるのか、何本もの医学論文が発表されることになるとは思いもしませんでした。
このあと、私の人生にはろくなことがありませんでしたので恐らくこの実験で私は自分の人生の運を使い切ってしまったのかもしれません
実験が佳境にはいってきた6月妻が出産のために日本に帰っていきました。米国で出産すると子供にグリーンカードがもらえるということで周囲からは米国での出産を勧められましたが初産の妻にストレスを与えたくなかったのです。
8月に娘が生まれ、12月にふたりになって帰ってくるまで私は独り暮らしをすることになりました。すると出るわ出るわ良いデータが次から次へと生まれてくるではありませんか。妻がいないとこれほどまでに研究が捗るとは思いませんでした。
妻がいないと食事を作ってもらえません。だから決まった時間に家に帰る必要がありません。服を着替える必要もありません。風呂に入る必要もありません。余った時間は全て仕事に使えます。
研究助手のルイスおばさんから「Change your T shirt!(いい加減、服を着替えろ!)」と怒鳴られましたが、自分の人生の中でこの6ヶ月間ほど仕事がはかどった時期はありませんでした。
おかげで留学して1年で概ねBMK1が細胞のなかでどんな役割を果たしているのか明らかになってきました。
我々が提唱した細胞内における BMK1 の役割。 細胞に栄養を与えると MEK5が活性化され、それによってBMK1が活性化する。 活性化したBMK1は細胞質から細胞核に移行し細胞核にある MEF などの転写因子を活性化して細胞の遺伝子を活性化する。
我々が提案したBMK1(ERK5)が細胞内で働く様子を示した動画。
それまで世界に三つしかなかったMAPキナーゼ経路(ERK1/2、JUNK、p38)に新しくBMK1経路が加わったわけです。
私はこの研究成果をまとめて当時(今もですが)超一流の科学雑誌であった「セル」に投稿しよう、と JD に提案しました。しかし、JD は同意しません。セルはファミリージャーナルだから研究成果を横取りされる恐れがある、というのです。
確かにセルは一流雑誌としての地位を確立するために多くの有名研究者の力を借りてきました。セルの表紙をめくると「ミニレビュー」というコーナーがあります。そこでは世界的に著名な研究者が世界の生物学研究の最先端について分かりやすく、かつ面白く解説しています。それらのレビューを掲載する見返りにセルはそれらの研究者の論文を優先して載せています。そのような「コネ」がきく雑誌のことをファミリージャーナルとよび、セルに論文を載せたいのであれば「セル・クラブ」に所属する研究者の元で研究をするのが最短距離と言われていました。もちろん、我々が働いていた研究室はセル・クラブではなかったため論文が受理される確率は低く、また最悪の場合、論文を審査するセル・クラブの研究者によって我々の研究成果を横取りされてしまう可能性はありました。
しかし、いくら実力のある研究室とは言え、我々の研究成果を再構成するにはかなりの時間と労力がかかります。論文を投稿して受理されなかったり査読者から無理難題をふっかけられるようであれば論文を取り下げて別の雑誌に投稿することもできます。そう言ってJDを説得しましたが彼は首を縦に振りませんでした。少し怯えているようにもみえたので、おそらく彼がまだ一度もトップジャーナルに論文を投稿したことがないという経験不足も影響しているようでした。もちろん、私もトップジャーナルに論文を発表した経験などありませんでしたし、もうそろそろ留学資金も底をつき始めてきたところです。これ以上彼と議論をしている余裕はありませんでした。
結局論文はセルと同じフォーマットの雑誌「EMBO Journal」というヨーロッパの分子生物学の雑誌に投稿することに決めました。
当時のEMBO Journal はインパクトファクター13点以上ありましたので論文が掲載されれば日本に帰ることができます。我々は急いで論文の校正にとりかかりました。私もJDも英語のネイティブスピーカーではありません。そこで同じ研究室で友人のカナダ人リチャードに校正を依頼しました。リチャードは私が書いた論文を跡形もないぐらい格調高い英文に書き換えてくれました。さらにその論文をボスのユルビッチにチェックしてもらい、論文は1997年の6月に投稿されました。
カナダ人リチャード・I・タッピング
現在はイリノイ大学で微生物学の教授をしている。
僕はアメリカ人よりカナダ人とかイギリス人のほうが好きだった。
アメリカ人は腕力にものを言わせるような、すぐに居丈高になるようなところがあって苦手だった。
おなじ人種なのになぜかカナダ人のほうがつきあいやすい。
「メープルリーフ州」の人たちはいい人たちだったよ。
それから1ヶ月ほど過ぎて出版社から論文が帰ってきました。
科学雑誌では論文を掲載する前に投稿されてきた論文が掲載に値するクォリティかどうか数人の科学者にチェックしてもらいます。そのような科学者のことを「査読者」というのですが我々の論文は 3 人の査読者のうちひとりからクレームがついた、というのです。
見てみると「英語があまりにひどい。投稿者は論文を投稿する前に英語を母国語とする人間に論文を直してもらうこと。」とありました。
どうやらカナダ人やユダヤ人の英語はイギリス人からすると我慢のならないものだったようです。
それから2ヶ月後、論文は無事受理され晴れて日本に帰る資格を手に入れることができました。
日本を発ってから1年半が経っていました。
渡米して初めて論文を投稿したころ、私の手元に一枚のデータがありました。
そのデータはいかにもエキセントリックで、例えて言うならば如何にもネイチャーが好みそうなデータでした。
ひと口にトップジャーナル、といってもネイチャーとセル、サイエンスでは好む論文が違います。
例えばサイエンスは投稿された論文が重要な発見である、という場合には喜んで掲載します。しかしネイチャーにとっては論文が学問的に重要かどうか、ということは比較的どうでも良いことなのです。なぜならサイエンスは米国の学会誌なので雑誌が面白くなくても読者は(半ば強制的に)雑誌を購入してくれます。
それに対してネイチャーは商業誌なので掲載する論文が面白くなくては誰も買って読んでくれません。
例えば「火星探査機が火星に到着して調査をしたところ 99%の可能性で生物は存在しなかった」という論文をサイエンスは好みます。しかし同じ内容の論文をネイチャーで発表しようとすると「火星を調査したところ、なんと1%の可能性で生物が存在していた。」と書かなければならないのです。 その時私が持っていたデータは如何にも後者の、ネイチャーの読者の好奇心をかきたてるようなそんなデータでした。
早速論文の作成にとりかかりましたが、トップジャーナル向けの論文であるだけにボスに相談することはできません。かといって相棒のJDに相談して尻込みをされても困ります。そこで私は同じ研究室のハンという男に相談してみることにしました。
なぜハンに相談したのか?それは当時私が留学していたユルビッチ研究室のなかで唯一ハンだけがネイチャーに論文を発表したことのある研究者だったからです。
ハンはMAPキナーゼ p38 の研究者として当時破竹の勢いでした。トップジャーナルに次々と論文を発表し、グラントも獲得して複数の中国人研究者を雇用しており、ユルビッチ研究所の中で半ば独立した存在でした。この男なら私の研究データの真価がわかるに違いありません。
ユルビッチ研究室のエース、ハン(Han Jiahuai)
ハン(Han Jiahuai)は世界で初めて 3 番目の MAP キナーゼ p38 のクローニングに成功して当時その分野の権威となりつつあった。
紅衛兵だったという噂があったため「造反有理」と紙に書いてみせたら昼飯を口から吹き出していたので本当なのかもしれない。
当時はもう少し髪があった。
そこで「このデータどう思う?」とデータを1枚だけ見せてみました。
論文の全てを見せるにはあまりに危険な相手です。あえて一切の説明を省きデータのみを見せました。するとハンの顔は一瞬でこわばり、激怒した彼は立ち上がって言いました。
「このようなデータは決して良い雑誌には受理されない!こんなデータは我々だって持っている。ましてネイチャーは絶対に・・・。」
ここまで言ってハンは急に黙ってしまいました。
そう、私はこのデータをネイチャーに投稿するなんてひと言も言っていないからです。
その時ハンにみせたデータ。
子宮がん細胞の細胞周期を現したデータで癌細胞中に大量の不活性型BMKI(BMK1(AEF))を産生させると癌細胞の分裂が停止する。何も説明しなかったがハンはひと目みて何を語るデータか見抜いた。
ハンに見せたデータの再現実験。動画では肝細胞がんを使用している。BMK1(ERK5)を不活性化した肝細胞がんをマウスに移植すると腫瘍細胞の増殖が抑制される。気楽に発表した研究成果だが、このように後から再現実験をする人がいるので侮れない。
誤解のないように説明します。
ハンは紳士です。科学者としても家庭人としても中国人の同僚を束ねる立派な男でした。私はそれまで彼が大きな声をだしたり動揺したり慌てたりするところを見たことがありません。
そのハンが、私のデータをみて、顔を真っ赤にして目を血走らせて「ネイチャーは受理しない。」と言い切るのです。
私はこの時自信をもって論文をネイチャーに投稿することに決めました。
ありがとうハン。僕は今でも君のことがとっても大好きだ。